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朝鮮式の濃厚な歓迎

チェホフは三ヵ月かけてシベリアを横断したのだが、その道筋は一八七八(明治十二)年の榎本武揚のそれとアムール川まではおなじである。以後は水行してニコライエフスクに出た。サハリンに三ヵ月滞在したのち、念願だった日本旅行を当時極東に大流行していたコレラのためにあきらめ、出発から八ヵ月後にモスクワに帰った。西海岸チェホフ(野田)にいまも彼の名はとどまっている。日本領になった真岡は、小樽からの定期船就航地、漁業基地として発展し、一九一九(大正八)年、樺太工業の工場がつくられると製紙の町として知られた。この工場は樺太の他の八工場とともに一九三三(昭和八)年、王子製紙に合併されたのだが、驚くべきことに現在も操業している。低い曇り空にゆらゆら白煙を吐くその姿はあまりにも時代がかりすぎていて、いまや前衛芸術のオブジェのような奇怪な美しさをかもし出している。

ショーイチの家はホルムスクの高台、日本時代には台町と呼ばれたあたりにあるありふれたアパートである。声をかけると流暢な日本語を話す中年男が出てきた。家を間違えたかと思ったが、話は通じている。居間にはロシア語と朝鮮語を解する東洋人の女性がいた。白人女性もいた。そして、最初に出てきた中年男は日本語しかわからないのだった。わたしたちは混乱した。いったいどういう家なのだろう。ショーイチはおなじ建物の別の区画に住んでいて、やがて前日の清掃員姿とは似つかぬこざっぱりした姿で現れた。しばらく話すうちに少しずつ家族構成がわかった。ショーイテの母は日本人である。戦中に朝鮮人と結婚し、家族は全員引き揚げたが彼女は残った。残らざるを得なかった。最初にわたしたちを迎えた中年男は日本人で、北海道から先日訪ねてきた彼女の弟だった。八〇年代なかば日本のテレビが取材に入ったとき画面のなかに樺太で別れた姉を見つけ、苦心して連絡をとったのである。

戦後間もなくショーイチが生まれた。ロシア語と朝鮮語しか話方ない女性は彼の妹である。ほかの兄弟はザバイカル地方に住んでいる。朝鮮人の夫はだいぶせんに亡くなった。ショーイチは長じてロシア人と結婚した。白人女性は彼の妻である。すでに彼は朝鮮人とのハーフである。彼の娘にはさらに複雑な血が流れることになった。わたしたちはこのユーラシアン家族の家で、おもに日本語で話し、朝鮮式の濃厚な歓迎を受けたのだった。ショーイチの姓名を漢字でかけば南正一、朝鮮読みなら、ナム・ジョンイルである。しかしそれが本名とは必ずしもいえない。日本漢字音読や日本訓読をそのまま、労働履歴、賞罰などを細大もらさず記録する労働手帳や身分証明書に書きこんだひとは、それが本名として扱われることになる。ユジノサハリンスク教育大学教授で、フョードロフーサハリン州知事の「政敵」として知られるボク教授も朝鮮族だが、「ボク」という日本音が本名である。ワソア名のボク・ミハエルウィチ、朝鮮語音名の「パク・スホ」はあるが「朴寿鎬」を正式名としている。八八年には五十年ぶりに訪韓したときパクースホ氏と呼ばれ、むしろとまどったという。

サハリンには約三万五千の朝鮮族が住んでいる。ショーイチの母のような境遇の日本人は約二百人である。サハリン在住朝鮮族は三種類にわかれる。第一は日本時代に「募集」に応じたり、「徴用」すなわち強制連行で樺太のおもに炭鉱に労働力として投入された南部朝鮮の出身者のグループ、第二は四七年から四九年にかけて、北朝鮮によって「労働力輸出」された「派遣労務者」とその子孫である。最後は、十九世紀末からロシア沿海地方に居住し、スターリン時代には中央アジアに強制移住させられて戦後サハリンに送りこまれたグループである。最後のグループはほとんど大陸に帰ってしまったが、「派遣」組はかなりの数がサハリンにとどまった。彼らは、六〇年代けじめの「帰国運動」にもさして積極的には反応せず、一度は帰国した青年たちも命懸けでソ連領に再越境してきたものが少なくはなかった。

現在ではそのスターリニズム体制に失望するあまり、元来の出身地のいかんにかかわらず北朝鮮との関係はまったく断たれている。ユジノサハリンスク郊外で偶然会った派遣組の老人は当初は相当に警戒的だったが、朝鮮語が通じるとなるとにわかに軟化し、写真を撮らせて欲しいと申し出たら、わざわざ新しいジャンパーに着替えて現れた。そして「南朝鮮製だよ」とわたしたちに盛んに自慢するのだった。「募集」「徴用」でサハリンにわたり、戦後は日本に置き去りにされた朝鮮族の国籍もやはり大きくふたつに分けられる。それは、「ソ連籍」と「無国籍」である。無国籍選択者は制度上の多大な不利をしのんでもあくまで自分の出身地、すなわち韓国への帰国の可能性を高めるためにあえてそうしたのだった。

他者性抜きの他者

議論から推定できることは「不可能性の時代にあっては、他者との極度に直接的な関係への志向が、他者との極限的に直接的なコミュニケーションへの欲望がせり出し、次第にその力を強めている」ということである。他者との直接的な関係とは、言い換えれば、他者たる限りでの他者との遭遇を意味する。少しばかり説明が必要だろう。われわれは、一般には、むしろ他者とは間接的にしか出会うことはない。すなわち、他者は、規範化された意味の秩序の中で、常に何者かとして同定されている限りで、すなわち象徴秩序の中で割り振られた特定の規定性を帯びた者としてのみ、私とその私もまた同じ秩序の中で同定されているのだが、対峙し、私と関係することができる。逆に他者との直接的な関係、身体的な接触を極限に持つような直接的な関係とは、他者たる限りでの他者との関係、それ自体としての他者との関係、他者の他者性との関係でなくてはならない。他者としての他者とは、純粋な差異、私に帰属する宇宙の総体に対する差異、上位の同一性の中で決して相対化されることのない絶対的な差異のことである。

ここで、他者としての他者、他者がその他者性において現れているような状態を「他者」と表記しておこう。とすれば我々の現在は「他者」への欲望によって規定されていると、とりあえずは言っておくことができる。「他者」を前にして家族との関係すらも偶有的なものとして現れることになるのだと。とは言えしかし「他者」との関係ということそのものに、根本的な逆説が宿っているのだ。このことを寓意的に示す作品として、パトリック・ジュースキントの小説、2006年に映画化された「香水ある人殺しの物語」(文芸春秋、1988年)を解釈することができるだろう。これは悪臭漂う18世紀のパリを舞台にした物語である。主人公のグルヌイユは、全く臭いを持たない男なのだが、超人的に敏感な嗅覚を持っていた。あるとき彼は理想的な香りの少女に出会うのだが、誤って彼女を殺してしまう。そこで、彼は彼女の理想の香りを再現しようとする。すなわち彼は、25人の若い美女を次々と殺し、その皮膚の表面を引っかいて香りを抽出し、それらを混ぜ合わせることで理想の香水を作り上げたのである。

この香水こそ、女性の精髄であり、これを嗅いだ者は自制心を失い、性欲を掻き立てられ、性的な狂騒にのめり込んでいくことになる。カントは、嗅覚のことを「非社交的な感覚」と呼んでいる。視覚や聴覚であれば、我々は他者を意識してコントロールすることができる。他人から見えないように隠れたり、他人に聴こえないように声を潜めたりすることができるのだ。しかし、体臭は、自在に制御することはできず、周囲に拡散してしまう。他者を嫌いになる理由は、しばしば、その他者の臭いにある。他者の思想やイデオロギーに寛容になることができても、体臭に対して寛容になることは難しい。と同時に、我々が他者に魅かれ、また他者を欲望することになる真の原因も、しばしば、その他者の発する臭いにこそある。好きな人、抱きしめたい人、口づけしたい人は、芳香を発している。「香水」の主人公グルヌイユは、臭いを持たないため、他者たちの欲望の対象になることがない。この作品において、臭いは他者としての他者、すなわち「他者」性の象徴である。それは、当の「他者」自身にとってすら、他者性を帯びたものとして、すなわち、自身の身体に内在する性質でありながら、自在に制御しえないものとして、立ち現れている。その対象「臭い」は一方では、人をして、その「他者」を欲望させる原因、その「他者」へと人を惹きつける原因である。

もっとも我々は、このことを一般に意識せず、もっと他の原因を、例えばその人物の性格を愛し欲望する理由として挙げるだろう。つまり欲望を惹起する真の原因は、象徴秩序の網「言語的了解」によって隠蔽されるだろう。ともあれ臭いは、しばしば他者を欲望させる本当の原因である。だが他方では、その同じ対象が「他者」を拒絶させる原因「他者」を嫌悪させる原因ともなっている。つまり、一方では、我々は「他者」へと魅かれ「他者」を熱烈に欲望するが、他方では我々は「他者」に嫌悪を覚えており、それでもなお「他者」が我々に迫ってくるならば、嫌いな体臭を発して接近してくるならば、それを侵襲的なものと感ずるだろう。「他者」には、このような根本的な両義性がある。「オタク」という語を一般に普及させるきっかけとなったのは、1988年から89年にかけて起きた、Mによる連続幼女殺害事件である。詳論は避けるが、Mの殺人は、本人の証言から判断すると、常に同じパターンで起きる。まず、Mが幼女に偶然に出会う。すると彼はその子に、自分を投影する(「自分が自分であった」幸せだった幼い日の自分をその子に見る)。

つまり、幼女との関係の直接性を実感する。しばらくすると幼女が、突然Mの意に反する自己主張を始める。泣き出したり、帰りたいと言い出したりするのだ。幼女がその「他者」としての性格を露呈させたのだと言ってよかろう。その瞬間、幼女との「甘い世界」が暴力的に引き裂かれたのを感じて、Mはその幼女を殺してしまう。この事件と最もよく似ている、その後の事件は酒鬼薔薇聖斗の事件であろう。酒鬼薔薇は「顔」に執着した。彼は、あえて顔に正対した上で、子どもを殺している。顔とは、私がそれを見ているときに、それもまた私を見ていることを直観しうる対象のことである。要するに、顔とは「他者」が顕現する場である。我々は今や、「不可能性」とは何か、不可能な「現実X」とは何かを、推定しうるところにきた。「不可能性」とは「他者」のことではないか。人は「他者」を求めている。と同時に「他者」と関係することができず「他者」を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの「他者」こそ「不可能性」の本態ではないだろうか。我々は、様々な「XX抜きのXX」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒーや、ノンアルコールのビールなど。「XX」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き去った、「XX」の超虚構化の産物である。こうした、「XX抜きのXX」の原型は「他者」抜きの「他者」他者性なしの「他者」ということになるのではあるまいか。「他者」が欲しい、ただし「他者」ではない限りで、というわけである。

日中防衛協調と沖縄米軍基地

最終的に、米軍は日本から追加の金をもらえずに出て行かざるを得ず、この場合はグアム移転の要員数が縮小され、米本上に戻る人数を増やすことで対応すると思われる。「政府や議会が一度決議するだけで米軍を出て行かせられる」という、日本人が「そんなことできるわけない」と思い込まされてきた世界の常識が、日本でも実行されることになる。米中逆転の事態の高まりを受け、日本が対米従属から脱する歴史的転換点となる出来事は、すでに静かに起きている。その出来事の一つは、2009年11月27日、訪日した中国の梁光烈国防部長と、日本の北潭俊美防衛大臣が会談し、海ヒ自衛隊と中国海軍による史上初の合同軍事演習(共同訓練)を行うことで合意した件である。この日中防衛相会談では、高官どうしの相互訪問を活発化することや、次官級の日中防衛当局問協議を毎年開催することなど、日中間の防衛協調を全体的に強化すると決定した。

日中の初の合同軍事演習は捜索・救難活動に関するものだ。防衛そのものの分野での演習ではないので、大した話ではないと見なされ、この件についての日本のマスコミ報道は小さかった。だが「捜索・救難活動」や「テロ対策」としての合同演習は、中国などが、ライバル諸国との敵対を緩和して協調関係に変質させるときに最初に行う常套的な軍事交流策の1つである。中国とロシアは、歴史的な敵対関係を緩和して「上海協力機構」の協調関係に転換した際、中露2国と中央アジア諸国も入れて、救難活動やテロ対策をテーマにした合同軍事演習を何度かやっている。中国とインド、インドとロシア、ロシアとイランなどの間でも、関係改善策として「救難」「海賊退治」をテーマに合同演習をやっている。

有力国どうしが敵対関係を解いて和解していくときには、軍艦の相互訪問から始まって、救難活動やテロ対策などの無難なテーマで合同軍事演習をやり、将軍や国防相の相互訪問、緊急連絡回線(ホットライン)の開設を進めるのが通常だ。米軍は、すでに国軍と相互訪問を展開している。日本と中国は、自民党政権の末期から軍艦の相互訪問をやったり、中国の災害救援に日本の自衛隊艦を派遣したりと、目立だない形で防衛協調を進めてきた。09年からの日中の軍事協調の強化は、それをさらに進めるものだ。鳩山政権への批判中傷に余念がない対米従属至上主義の人々による猛反発があっても不思議ではないのだが、「救難に関する共同訓練」は人したことではないと考えられたのか、騒ぎになっていない。しかし現実には、日本が中国と、軍どうしの合同演習や防衛交流を強めるほど、日本にとって中国は脅威ではなくなる。

もともと中国脅威論が日本で台頭したのは、1990年代末以降、外務省など日本の官僚機構が、権力の源泉である対米従属を維持するために、マスコミを通じて反中国的な世論を喚起したためだ。日本人の反中国感情は、官僚とマスコミに踊らされた結果といえる。マスコミは、日中国交正常化後の1980年代には、今とは逆に「日中友好」を喧伝し、当時の日本人は、今と比べると非常に親中国的だった。多くの人々は、マスコミを通してしか世界観を構築できないので、自ら気づかないうちに価値観を操作されている。

韓国では中央日報の社説が「日中が合同軍事訓練をするというのに、韓国はまだ日本とも中国とも、軍事交流は初歩的な水準にとどまっている。韓国にとって重要なのは、北東アジア軍事協力構図から疎外されない対策だ。日本や中国との軍事交流・協力を強化し、韓日中3ヵ国間の協力案を模索しなければならない」と書いた。日本、中国、米国、ロシアの4大国にはさまれて翻弄されてきた歴史を持つ小国である韓国の人の方が、日本人より敏感に、日本の変化に気づいている。日本にとって中国が脅威でなくなると、必要性が大幅に低下するものがある。それが、沖縄の米軍基地である。2005年の日米防衛協議で、沖縄の米軍基地は、従来からの朝鮮半島有事への備えだけでなく、台湾海峡有事(つまり中国の脅威)に備えるためにも必要だと宣言された。

米国の揺れの背後に米英の暗闘

中国には国内に大きな油田がないが、新セブン・シスターズには中国の国有石油会社が入っている。その理由は、中国がアフリカのスーダンやイランなど、世界各地で現地国の政府と組んで油田・ガス田の開発を手がけており、国外で多くのエネルギー利権を開拓しているためだ。日本もやる気さえあれば、中国と同様の戦略を採れたはずだが、日本は戦後一貫して対米従属の国家方針を堅持し、米国が握る石油利権を侵害したくないという意志が政府に強く、外国での独自の油田開発を嫌い、米英石油会社から石油を買う方を好んだ。そのため、日本は外国に油田の利権を持っていない。米英石油会社が石油利権を失っていることは、日本にとっても非常に不利なこととなっている。

米国が覇権を失いつつある中で、対照的に覇権を拡大しつつあるのは、中国、ロシア、ブラジル、インドという、4力国の頭文字をつないで「BRICS」と呼ばれる国々だ。特に、中国とロシアが国際社会における影響力を拡犬している。ブラジルとインドは、中露とは違って国連安保理の常任理事国ではないこともあり、単独ではあまり国際政治に首を突っ込んでいないが、BRICS4力国としては、国連やWTO(世界貿易機関)などの国際社会において、一つの団結した勢力として振る舞い、これまで世界を率いてきた欧米の意思とは食い違う、発展途ヒ国の立場を代弁する主張を表明することが多くなっている。BRICSのうち、ロシアとブラジルは石油ガス産出国であり、中国もすでに見たように世界各地で油田・ガス田開発を手がけ「新セブン・シスターズ」に名を連ねている。BRICSは、資源大国群でもある。

このほか、アラブ諸国を中心とするイスラム世界や、中南米諸国、アフリカ諸国なども、国際社会において、地域として団結した意思を表明することが増えている。私は、BRICSとその他の団結傾向のある途上国を総称して「非米同盟」と呼んでいる(2004年に、この題名の本を文春新書として出した)。かつて冷戦が激しかった1950年代に、イスラム世界や中南米の発展途上国が「非同盟諸国」として団結し、米国ともソ連とも異なる意見を表明する動きが強まったが、非米同盟はその流れをくんでいる。非同盟諸国の政治運動は70年代に下火になり、発展途七国の多くは、欧米型の政治経済システムを取り入れて豊かになろうとする経済主導の国是に転換したが、9・11後に米国が「単独覇権主義」を振りかざして利己的に振る舞う傾向を強めたことを途上国側か嫌気して流れは再び転換し、バラバラだった途上国は、非米同盟と呼べるような、ゆるやかな同盟体へと発展した。

09年末にデンマークのコペンハーゲンで開かれた地球温暖化対策の国連サミット「COP15」では、途上諸国と先進諸国の意見が鋭く対立し、最終的に、途上諸国を代表する中国と、先進諸国を代表する米国との首脳どうしの2者会談で決着が模索された。途上諸国は「中国+G7」という組織を作り、中国を自分たちの代表格とみなした。米中が世界を代表するという、COP15で見られたこの構図は、米中逆転と多極化を象徴している。米国は中国に「米中が協調して世界を切り盛りするG2体制を作ろう」と提案しており、その意味では「米中逆転」ではなく、米国の失墜と中国の台頭による「米中対等化」と呼ぶべき状況もある(多極型の世界を好む中国は、米国が提案した米中G2の構想を拒否した)。

第二次大戦以来、世界は米国の覇権体制だったが、これは正確には「米英同盟」の覇権体制である。本書のテーマである米中逆転とは、米英とBRICSの逆転現象のことだ。そして、ここで重要なのは、従来の米英覇権体制が、米国より英国にとって利益のある体制だったという事実だ。ユーラシア大陸から離れた北米大陸に立地する米国の世界戦略の基本は、世界の各地域にある地域覇権国を束ねる多極型の世界体制によって世界を安定させることで、これは第二次大戦末に作られた国連の安保理常任理事国の体制(米英仏露中)に表れている。対照的に、ユーラシア西端の島国である英国の世界戦略は「地政学」と呼ばれるもので、日本やインドなどユーラシア周縁部にある各国と協調し、中国やロシアといったユーラシ
ア内陸にある大国を封じ込める戦略だ。

金融商品取引法上の説明義務

これらの説明は、顧客の知識、経験、財産の状況、および当該契約を締結する目的に照らして、当該顧客に理解されるために必要な方法および程度によるものでなければならないという規定が新設されました(同法3条2項)。顧客の適合性に配慮した説明が求められ、知識・経験等が乏しい顧客には、より丁寧な説明をしなければ説明義務を果たしたことにならないということです。業者が金融商品販売法上の説明義務に違反したときは、それによって顧客が被った損害を賠償する責任を負います(同法5条)。一般不法行為に基づく責任と比較すると、①業者の責任が無過失責任である、②元本欠損額が顧客の被った損害額と推定される点で、顧客側に有利になっています。なお、プロ投資家に対しては、金融商品販売法上の説明義務および損害賠償責任の規定は適用されません(同法3条7項、同施行令8条)。

金融商品販売法上の説明義務は民事責任を生じさせるだけで、行政監督の直接の根拠にはなりません。そこで、説明義務に違反した業者に対して直接的に監督上の処分を発動できるように、金融商品取引法においても説明義務が規定されました。もっとも、金融商品取引法は、これを説明義務という形式ではなく、金融商品取引契約締結前の書面交付義務という形式で定めています。すなわち、金融商品取引業者等は、金融商品取引契約を締結する前に、顧客に対して、①当該契約の概要、②手数料・報酬等、③相場の変動により損失が生ずるおそれがあること、④③の損失が顧客の預託すべき委託証拠金等の額を上回るおそれがあること等を記載した書面(契約締結前交付書面)を交付(電子的手段による提供も可)しなければなりません(37条の3)。

ここでの金融商品取引契約とは、業者が顧客を相手方とし、または顧客のために2条8項各号に掲げる行為(金融商品取引業を構成する行為)を行うことを内容とする契約(34条参照)をいいます。ただし、プロ投資家を相手方とする場合、および内閣府令で定める場合には、書面交付義務は適用されません。内閣府令では、①過去1年以内に上場有価証券の売買に関するリスク情報を記載した書面を交付している場合、②過去1年以内に有価証券の取引またはデリバティブ取引に係る同種の内容の契約について契約締結前交付書面を交付している場合、③目論見書を交付している場合等があげられています(金商業府令80条)。①と②の違いはリスクの差を考慮したものでしょう。

また、金融商品取引業者の禁止行為として、契約締結前交付書面の交付に際し、リスク情報等について顧客の知識、経験、財産の状況および契約締結の目的に照らして当該顧客に理解されるために必要な方法および程度によって説明をせずに契約を締結する行為があげられました(38条6号、金商業府令117条)。これによって、金融商品販売法の説明義務と同内容の説明義務が、業者の行為規制として実現されたことになります。書面交付義務に違反した場合には、行政処分の対象になるほか、違反行為者と法人が処罰の対象になります(205条、207条)。

適合性の原則とは、顧客の知識、経験、財産の状況等に照らして不適当と認められる勧誘を行ってはならないことをいい、証券取引法43条に業者規制としての根拠規定(違反すると行政処分の対象となる)が置かれていました。説明義務とは別に適合性の原則を勧誘ルールとして定める意味は、投資対象に適合性を有しない顧客に対しては、そもそも勧誘を行ってばならない義務を業者に課すことにあります。最高裁平成17年7月14日判決は、①顧客の知識、経験、財産の状況だけでなく、顧客の意向(投資目的)も適合性の判断基準となること、および②適合性の原則からの著しい逸脱が不法行為法上の損害賠償責任を生じさせることを明らかにしました。①を受けて、金融商品取引法では、「契約を締結する目的」を適合性の判断基準に加えました(40条1号)。したがって金融商品取引業者等の役職員は、いくら財産があっても、安全な運用を望む顧客にリスクの高い商品を勧誘してはならないことになります。

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