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東西交易の歴史は、キツネとタヌキの化かし合い

ポルトガル人が広東の料理人の店でローストタックを買った。(中略)かついで自分の船まで運んで帰り、(中略)ナイフを入れたとき、それはただの皮だけで、棒と一緒に巧妙に詰め込まれた紙の上に皮がのせてあり、家鴨の体らしく見せかけてあっただけということがわかった。この話、最近の中国での出来事ではない。17世紀のはじめに、あるヨーロッパ人が残した記述である。「紙詰めタック」だなんて、もしやあの「ダンボール入り肉まん」のルーツか? と連想させるような逸話である。この話は、百数十年後の18世紀に書かれた『茶の博物誌』という本に引用されている。同書は当時のヨーロッパ、ことにイギリスの人々を魅了していた「中国の茶」について丹念に記し激賞された一冊である。

著者でイギリス人医師のジョン・コークレイ・レットサムは同書の中に、「中国の路上で盲人から八重の紅白の花が付いた珍しい椿を買ったら、枝に花を付けただけのニセモノだった」という、別の人物が書き残した逸話もあわせて引用し、「中国人は人をだます専門家」であることの説明としている。レットサムの著作を紹介したついでに、ヨーロッパと中国の間での茶の交易をめぐっての、当時のヨーロッパ人の中国人観を見てみよう。17世紀、中国からヨーロッパベ茶が輸出されたときに初めて、イギリス人は茶というものと出会った。はじめ上流階級だけに流行した喫茶の習慣はほどなく庶民にまで広まり、やがてイギリス人はお茶なしには生活できなくなり、茶の輸入量が伸び続けた。

当時は、大規模な茶の産地はほぼ中国大陸に限られていて、イギリスは清に頭を下げて茶を売ってもらうほかはなく、対中貿易赤字は膨らむ一方であった。やがてイギリスが、茶の代金としての銀の用立てに窮し、代わりにインド産のアヘンを清へ輸出したことが、1840年のアヘン戦争を引き起こす端緒となったのである。たかがお茶のために戦争までするなんて、とあきれるかもしれないが、現在の世界で石油をめぐって戦争が頻発しているのと原理は同じである。ともかく、17-19世紀にかけての百数十年間、イギリス東インド会社にとって、中国での茶の調達は最重要課題であった。そのため、古いヨーロッパの記録には、中国との茶の取引にはいかに忌々しいことが多いか、中国人がいかに校猪であるか、が笑ってしまうほど生々しく書き残されている。

「茶箱の底には石が詰められ上げ底されていた」「上級茶のはずが、カビだらけの下級茶だった」「茶の香りを偽装するため、ギンモクセイの花が大量に混ぜられていた」等々。ただ。これらすべてが必ずしも中国人の「ズル」のせいとばかりともいえない。何しろ真空包装も空調も航空便もない、大海に揺られる蒸し暑い船底に茶箱が詰め込まれて運ばれた時代のことなのだから。しかし、総じて、ヨーロッパの人々の中国人への不信感は相当なものであった。さらにレッドサムは、当時イギリスで国論を二分するほど激しい議論の対象となっていた。茶の心身への影響(茶は健康にいいのか、悪いのか)を論じるにあたり、茶を常飲する中国人の心身の特徴からそれを類推しようとも試みた。いわく、中国人は、一般に、体力は中くらいの民族で、(中略)臆病でずるく、(中略)きわめて偽善的で利己的であり、女性的で復讐心が強く、不正直であるとされている。何というあけすけな言いようであろうか。当時の西洋人の東洋人に対する偏見を感じはするものの、頷けなくもない。

もっとも、そんな中国人の茶商とイギリス東インド会社とが組んで、イギリス向け輸出紅茶の産地偽装を行なったこともあるのだから、英中はどっちもどっち。立派に(?)キツネとタヌキの化かし合いだ勺たというわけである。中国人の正体を知らなかったのは日本人だけ? レットザムの著述を含む、多くの東西交易の記録から気づかされることが2点ある。第一は、中国大陸での食に関する偽装は、少なくとも数百年、ひょっとしたら何千年にもわたる伝統に裏打ちされた筋金入りのお家芸だということだ。「毒ギョーザ事件」以後、日本のメディアや識者が、中国で多発する毒食事件の背景を解く論の中でよくいわれたのが、「郡小平が始めた改革開放政策による拝金主義の蔓延」という分析であった。

大国のエゴイズム

「個人主義」と「集団主義」は、それぞれ人間社会の基本的な構造である。動物の社会にあっても、群れを形成するものと単独行動するものかあり、それぞれに合理性かある。しかし、集団主義というと、弱い者が集まり、みなで渡れば怖くない、というように、なんとなくやましさを感じるのも事実だ。外国で、一人だと静かで行儀かよいのに、集団になると途端にかやかや傍若無人になる姿が想起され、嫌われる。一方、個人主義というと、自己の責任において毅然たる行動をとり、白馬の騎士のようなイメージで、なんとなく好感が持てそうである。少なくとも他人に頼ることなく、良くても悪くても結果を自分で受けとめるのだから潔い、とされがちである。

アメリカ人ツアー客も、ヨーロでハでは日本人や中国人のそれと同様、鄭楡されることも少なくないようだが、社会の基本的構造としては、アメリカはヨーロッパ諸国と同様、「個人主義」の国である。そして、日本人は、「集団主義」だ。同じ人間なのに、どうして集団主義と個人主義という違いか出るのだろうか。DNAの中にその差があるだろうか、未だそれは解明されていない。しかし、環境要因、ことに教育のあり方が大きな影響を与えていることは確実だ。アメリカで育った日本人かアメリカ人のように振る舞うことか、この事実を物語っている。家庭では日本人としてしつけをしているのに、アメリカで育つとアメリカ的になるということは、主としてアメリカの教育の影響を受けているからだと思われる。

アメリカの学校で教育を受けなから、友だちを見ならううちに自然にアメリカ流を身につげるのだ。では、欧米の教育とはどういうものかというと、数学、文学、自然科学、芸術などすべてにそれなりの知識と能力を持つことを目指すより、個人個人の才能や能力を見いたし、才能があると認められたところを重点的に育てる傾向か強い。わたしの娘はフランスの幼稚園に通っていたか、あるとき衝撃的なシーンに出くわした。遊びの時間になると、日本ではお絵描きしましょうとか、運動しましょう、といって園児がいっしょに行動するのか常だが、フランスでは、個人個人、別々の遊びをする。絵を描く子、ボール遊びをする子、積み木遊びをする子、てんでにパラパラである。

それはそれでいい。驚いたのは、娘がほかの子と同じような遊びをしようとすると、先生にしがられたことである。自分で自分の遊びを見つげなさい、とたしなめられたのだ。他人と同じことをしてはいけないのである。日本の幼稚園に通っていた娘は当惑して、何をしてよいのかわからず、おどおどしてしまった。日本ならば、みなの輪の中に入ればよいし、そこで仲よくすることか「良いこと」なのだから。ところが、それがここでは「悪いこと」。まったく正反対なのだ。自分は自分なりの遊び方を自分で考え、他人にかかおりなく、一人で遊びなさい、と徹底的に教えこまれる。こうして、個人主義という考えか小さい頃から備わってくるのだ。西欧においては教育を中心として社会全体か個人主義を育てているわげである。日本のように、みんな仲よくいっしょにやりましょう、という「和の精神」とは根本的に対立している。

個人主義を追求すれば個人がパラパラとなり、集団として力を発揮することかできない。集団主義を追求すれば個人の才能は集団の中に埋もれ、能力を発揮することかできない。個人主義、集団主義はそれぞれ良い点、亜ごい点を持ち、宿命的に対立するものである。個人レベルに注目した個人主義は総じて肯定的に評価されるか、国レベルとなると、そうはいかない。アメリカか唯一の超大国となっている現在では、ともすればアメリカの独善を導き出しかねない。地球温暖化対策について、ロシアを含めた先進国が、気候変動枠組条約の京都議定書のもとで、二〇〇八年から二〇一二年まで二酸化炭素排出量を減らす努力を続けているのはよく知られているだろう。

体外受精の実施状況に関する統計

このように体外受精、なかんずく顕微授精によって、夫の精子による妊娠がかなりの程度可能になったことは、広く実施されてきたAIDを見直すきっかけとなった。技術的に夫の精子による妊娠が可能なのに、提供された精子を使うのは安易だというのである。しかし体外受精は、AIDに比較して排卵誘発剤の投与、卵の採取などによって女性や生まれてくる子どもの身体に負担がかかる。成功率も低い。そして不妊の原因はあくまでも男性の側にあるのに、生殖技術の対象となるのは、健康な不妊ではない女性なのである。このようにいまだ体外受精が女性や生まれてくる子どもへの副作用の有無が明確ではない現状では、AIDによって子どもをもつことができるのに、あえて顕微授精まで行なって体外受精を利用することの倫理性が問われる必要があろう。それとも夫婦の選択の問題なのだろうか。不妊治療の目的は、育てる子どもをもつことなのか、遺伝的なつながりのある子どもをもつことなのかが、あらためて問われているのである。

生殖技術の対象となるのは主として女性の身体である。とくに体外受精では、女性に排卵誘発剤を投与して一回に数個から十数個の卵を採取する。採卵は、かってはお腹に針を刺し腹腔鏡で見ながら行なう経腹法が採用されていた。これは全身麻酔をかけての大がかりな外科的な手術で、出血などの危険性が高かった。現在では、女性にとってはるかに安全な部分麻酔で行なえる経腔法で行なわれている。しかしいわゆるホルモン剤である排卵誘発剤などの投与が、女性や生まれてくる子どもにどのような副作用をもたらすかは、この技術が実施されるようになってから二〇年に満たない現在、明確な答えは出ていない。現に一九九五年には、体外受精のために排卵誘発剤を使用した結果脳血栓になり半身まひになったとして、国と治療にあたった病院を相手として損害賠償を求める訴訟が提起されている(『朝日新聞』一九九五年九月二五日付)。

子どもの福祉という点からは、体外受精によって生まれてくる子どもが、心身に障害をもつことぱないかか、この技術を評価するにあたっては極めて重要なことである。体外受精技術が人間の不妊治療法として研究されはじめた頃、この技術に対する反対は、奇形など異常な子どもが生まれる可能性が高いということであった。技術的に未熟な初期の段階で、少なくとも何人かの奇形や知恵遅れの子どもが生まれてくることが予想されるから、このことだけからもこの研究を続けるのは不道徳であると、強力な反対論が展開されたのである。これに対して、すでに行なわれていた動物の体外受精では異常の発生率は自然の生殖と変わらないから、人間についても安全な技術と想定できると反論がなされたが、受け容れられなかった。

生殖については、種によって大きく異なっていて、人間以外の動物での実験結果がそのまま人間にあてはまるとは限らないという理由であった。そこで人間の体外受精という未知の分野に挑戦する医師や研究者たちがもっとも怖れたのは、異常をもった子どもが生まれないかということであった。幸いなことに、イギリスで出生した体外受精第一号児は正常だった。その後十数万人の体外受精児が生まれてきているが、いずれの調査によっても、出生児への異常の発現率は、自然の発生頻度の範囲内であり、異常も特定の臓器に片寄ってはいない。体外受精で、卵、精子そして受精卵に対して人為的な操作を行なうにもかかわらず、出生児の異常の発現率が自然の生殖に比較して高くならないのは、欠陥のある受精卵が形成されたとき、とくにそれが染色体異常のように出生児に異常がでるような場合には、受精卵は子宮に着床できないか、着床しても流産してしまうからである。自然に挑戦するかのごとき体外受精。だがその安全性は母体の生理という自然の摂理に守られていることを物語っている。

体外受精の実施状況に関する統計は、国際的にも日本国内でも、かなり整備されている。一九九三年九月に、京都で開催された第八回体外受精学会で明らかにされたところによると、一九九一年一年間で、世界四六か国の七六〇の施設で、一三万八〇〇〇回の採卵と一一万六〇〇〇回の移植が行なわれ、妊娠回数は二万六〇〇〇回、そして一万九三一四人が少なくとも一人の子どもを産んでいる。多胎妊娠が二〇パーセント以上を占めているので、一年間で二万人を超える体外受精児が出生していることになる。前回の調査(一九八九年の実績に基づく調査)に比較して、採卵回数は五五パーセント、妊娠回数は七〇パーセント、体外受精児を産んだ女性の数は九〇パーセント増加したことになる。一九八九年の実績に基づく調査では、出生児数は約一万人だったから二倍に増えたことになる。

朝鮮式の濃厚な歓迎

チェホフは三ヵ月かけてシベリアを横断したのだが、その道筋は一八七八(明治十二)年の榎本武揚のそれとアムール川まではおなじである。以後は水行してニコライエフスクに出た。サハリンに三ヵ月滞在したのち、念願だった日本旅行を当時極東に大流行していたコレラのためにあきらめ、出発から八ヵ月後にモスクワに帰った。西海岸チェホフ(野田)にいまも彼の名はとどまっている。日本領になった真岡は、小樽からの定期船就航地、漁業基地として発展し、一九一九(大正八)年、樺太工業の工場がつくられると製紙の町として知られた。この工場は樺太の他の八工場とともに一九三三(昭和八)年、王子製紙に合併されたのだが、驚くべきことに現在も操業している。低い曇り空にゆらゆら白煙を吐くその姿はあまりにも時代がかりすぎていて、いまや前衛芸術のオブジェのような奇怪な美しさをかもし出している。

ショーイチの家はホルムスクの高台、日本時代には台町と呼ばれたあたりにあるありふれたアパートである。声をかけると流暢な日本語を話す中年男が出てきた。家を間違えたかと思ったが、話は通じている。居間にはロシア語と朝鮮語を解する東洋人の女性がいた。白人女性もいた。そして、最初に出てきた中年男は日本語しかわからないのだった。わたしたちは混乱した。いったいどういう家なのだろう。ショーイチはおなじ建物の別の区画に住んでいて、やがて前日の清掃員姿とは似つかぬこざっぱりした姿で現れた。しばらく話すうちに少しずつ家族構成がわかった。ショーイテの母は日本人である。戦中に朝鮮人と結婚し、家族は全員引き揚げたが彼女は残った。残らざるを得なかった。最初にわたしたちを迎えた中年男は日本人で、北海道から先日訪ねてきた彼女の弟だった。八〇年代なかば日本のテレビが取材に入ったとき画面のなかに樺太で別れた姉を見つけ、苦心して連絡をとったのである。

戦後間もなくショーイチが生まれた。ロシア語と朝鮮語しか話方ない女性は彼の妹である。ほかの兄弟はザバイカル地方に住んでいる。朝鮮人の夫はだいぶせんに亡くなった。ショーイチは長じてロシア人と結婚した。白人女性は彼の妻である。すでに彼は朝鮮人とのハーフである。彼の娘にはさらに複雑な血が流れることになった。わたしたちはこのユーラシアン家族の家で、おもに日本語で話し、朝鮮式の濃厚な歓迎を受けたのだった。ショーイチの姓名を漢字でかけば南正一、朝鮮読みなら、ナム・ジョンイルである。しかしそれが本名とは必ずしもいえない。日本漢字音読や日本訓読をそのまま、労働履歴、賞罰などを細大もらさず記録する労働手帳や身分証明書に書きこんだひとは、それが本名として扱われることになる。ユジノサハリンスク教育大学教授で、フョードロフーサハリン州知事の「政敵」として知られるボク教授も朝鮮族だが、「ボク」という日本音が本名である。ワソア名のボク・ミハエルウィチ、朝鮮語音名の「パク・スホ」はあるが「朴寿鎬」を正式名としている。八八年には五十年ぶりに訪韓したときパクースホ氏と呼ばれ、むしろとまどったという。

サハリンには約三万五千の朝鮮族が住んでいる。ショーイチの母のような境遇の日本人は約二百人である。サハリン在住朝鮮族は三種類にわかれる。第一は日本時代に「募集」に応じたり、「徴用」すなわち強制連行で樺太のおもに炭鉱に労働力として投入された南部朝鮮の出身者のグループ、第二は四七年から四九年にかけて、北朝鮮によって「労働力輸出」された「派遣労務者」とその子孫である。最後は、十九世紀末からロシア沿海地方に居住し、スターリン時代には中央アジアに強制移住させられて戦後サハリンに送りこまれたグループである。最後のグループはほとんど大陸に帰ってしまったが、「派遣」組はかなりの数がサハリンにとどまった。彼らは、六〇年代けじめの「帰国運動」にもさして積極的には反応せず、一度は帰国した青年たちも命懸けでソ連領に再越境してきたものが少なくはなかった。

現在ではそのスターリニズム体制に失望するあまり、元来の出身地のいかんにかかわらず北朝鮮との関係はまったく断たれている。ユジノサハリンスク郊外で偶然会った派遣組の老人は当初は相当に警戒的だったが、朝鮮語が通じるとなるとにわかに軟化し、写真を撮らせて欲しいと申し出たら、わざわざ新しいジャンパーに着替えて現れた。そして「南朝鮮製だよ」とわたしたちに盛んに自慢するのだった。「募集」「徴用」でサハリンにわたり、戦後は日本に置き去りにされた朝鮮族の国籍もやはり大きくふたつに分けられる。それは、「ソ連籍」と「無国籍」である。無国籍選択者は制度上の多大な不利をしのんでもあくまで自分の出身地、すなわち韓国への帰国の可能性を高めるためにあえてそうしたのだった。

他者性抜きの他者

議論から推定できることは「不可能性の時代にあっては、他者との極度に直接的な関係への志向が、他者との極限的に直接的なコミュニケーションへの欲望がせり出し、次第にその力を強めている」ということである。他者との直接的な関係とは、言い換えれば、他者たる限りでの他者との遭遇を意味する。少しばかり説明が必要だろう。われわれは、一般には、むしろ他者とは間接的にしか出会うことはない。すなわち、他者は、規範化された意味の秩序の中で、常に何者かとして同定されている限りで、すなわち象徴秩序の中で割り振られた特定の規定性を帯びた者としてのみ、私とその私もまた同じ秩序の中で同定されているのだが、対峙し、私と関係することができる。逆に他者との直接的な関係、身体的な接触を極限に持つような直接的な関係とは、他者たる限りでの他者との関係、それ自体としての他者との関係、他者の他者性との関係でなくてはならない。他者としての他者とは、純粋な差異、私に帰属する宇宙の総体に対する差異、上位の同一性の中で決して相対化されることのない絶対的な差異のことである。

ここで、他者としての他者、他者がその他者性において現れているような状態を「他者」と表記しておこう。とすれば我々の現在は「他者」への欲望によって規定されていると、とりあえずは言っておくことができる。「他者」を前にして家族との関係すらも偶有的なものとして現れることになるのだと。とは言えしかし「他者」との関係ということそのものに、根本的な逆説が宿っているのだ。このことを寓意的に示す作品として、パトリック・ジュースキントの小説、2006年に映画化された「香水ある人殺しの物語」(文芸春秋、1988年)を解釈することができるだろう。これは悪臭漂う18世紀のパリを舞台にした物語である。主人公のグルヌイユは、全く臭いを持たない男なのだが、超人的に敏感な嗅覚を持っていた。あるとき彼は理想的な香りの少女に出会うのだが、誤って彼女を殺してしまう。そこで、彼は彼女の理想の香りを再現しようとする。すなわち彼は、25人の若い美女を次々と殺し、その皮膚の表面を引っかいて香りを抽出し、それらを混ぜ合わせることで理想の香水を作り上げたのである。

この香水こそ、女性の精髄であり、これを嗅いだ者は自制心を失い、性欲を掻き立てられ、性的な狂騒にのめり込んでいくことになる。カントは、嗅覚のことを「非社交的な感覚」と呼んでいる。視覚や聴覚であれば、我々は他者を意識してコントロールすることができる。他人から見えないように隠れたり、他人に聴こえないように声を潜めたりすることができるのだ。しかし、体臭は、自在に制御することはできず、周囲に拡散してしまう。他者を嫌いになる理由は、しばしば、その他者の臭いにある。他者の思想やイデオロギーに寛容になることができても、体臭に対して寛容になることは難しい。と同時に、我々が他者に魅かれ、また他者を欲望することになる真の原因も、しばしば、その他者の発する臭いにこそある。好きな人、抱きしめたい人、口づけしたい人は、芳香を発している。「香水」の主人公グルヌイユは、臭いを持たないため、他者たちの欲望の対象になることがない。この作品において、臭いは他者としての他者、すなわち「他者」性の象徴である。それは、当の「他者」自身にとってすら、他者性を帯びたものとして、すなわち、自身の身体に内在する性質でありながら、自在に制御しえないものとして、立ち現れている。その対象「臭い」は一方では、人をして、その「他者」を欲望させる原因、その「他者」へと人を惹きつける原因である。

もっとも我々は、このことを一般に意識せず、もっと他の原因を、例えばその人物の性格を愛し欲望する理由として挙げるだろう。つまり欲望を惹起する真の原因は、象徴秩序の網「言語的了解」によって隠蔽されるだろう。ともあれ臭いは、しばしば他者を欲望させる本当の原因である。だが他方では、その同じ対象が「他者」を拒絶させる原因「他者」を嫌悪させる原因ともなっている。つまり、一方では、我々は「他者」へと魅かれ「他者」を熱烈に欲望するが、他方では我々は「他者」に嫌悪を覚えており、それでもなお「他者」が我々に迫ってくるならば、嫌いな体臭を発して接近してくるならば、それを侵襲的なものと感ずるだろう。「他者」には、このような根本的な両義性がある。「オタク」という語を一般に普及させるきっかけとなったのは、1988年から89年にかけて起きた、Mによる連続幼女殺害事件である。詳論は避けるが、Mの殺人は、本人の証言から判断すると、常に同じパターンで起きる。まず、Mが幼女に偶然に出会う。すると彼はその子に、自分を投影する(「自分が自分であった」幸せだった幼い日の自分をその子に見る)。

つまり、幼女との関係の直接性を実感する。しばらくすると幼女が、突然Mの意に反する自己主張を始める。泣き出したり、帰りたいと言い出したりするのだ。幼女がその「他者」としての性格を露呈させたのだと言ってよかろう。その瞬間、幼女との「甘い世界」が暴力的に引き裂かれたのを感じて、Mはその幼女を殺してしまう。この事件と最もよく似ている、その後の事件は酒鬼薔薇聖斗の事件であろう。酒鬼薔薇は「顔」に執着した。彼は、あえて顔に正対した上で、子どもを殺している。顔とは、私がそれを見ているときに、それもまた私を見ていることを直観しうる対象のことである。要するに、顔とは「他者」が顕現する場である。我々は今や、「不可能性」とは何か、不可能な「現実X」とは何かを、推定しうるところにきた。「不可能性」とは「他者」のことではないか。人は「他者」を求めている。と同時に「他者」と関係することができず「他者」を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの「他者」こそ「不可能性」の本態ではないだろうか。我々は、様々な「XX抜きのXX」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒーや、ノンアルコールのビールなど。「XX」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き去った、「XX」の超虚構化の産物である。こうした、「XX抜きのXX」の原型は「他者」抜きの「他者」他者性なしの「他者」ということになるのではあるまいか。「他者」が欲しい、ただし「他者」ではない限りで、というわけである。

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